私が働いた6年間に何が残ったのか~真面目人間のご自愛日記~

2024.03.19

2月某日、私はスタバの片隅でソイラテを飲みながら泣いていた。
できるだけバレないように泣いていたが、周囲の客には不審な目で見られていた。それに気付いてはいたものの、それでも涙は止まらなかった。

11月下旬に適応障害と診断された私は、その約1ヵ月後に休職し、復職することなく2月に退職をした。退職自体は医師から勧められたわけではなく、周りから言われたわけでもなく、自分の中でたくさん考えた結果、自分で決断した。そのこと自体に後悔はなく、決めた瞬間はとてもすっきりしたのを覚えている。そして今も、退職したことに1ミリも後悔はしていない。

休職中から退職が決まった後も、私は週に何日か「朝マック」ならぬ「朝スタバ」をしていた。無職かつお金がない私にとっては贅沢だということはわかっていたが、「私はスタバで朝活をしている」という事実が、そしてスタバから醸し出されるあのお洒落な雰囲気が、私の心をとても満足させていた。これはお金に変えられない。必要経費である。

優雅にスタバでソイラテを飲みながら、仲の良い元同僚とLINEをしていた。
適応障害になった原因はいろいろとあるが、決定打となったのは人間関係だった。しかし、前職には仲が良い同僚もたくさんいた。その同僚たちは私の様子を気にかけてくれていて、私が負担に感じない程度に連絡をくれていた。
その中で、私の送別会をしよう、という話が出ていることを教えてくれた。


勤めていた会社は、誰かが退職する時に送別会が行われる。といっても全社員が出席するような大規模なものではなく、社長と退職者が所属していた部署の社員が出席する程度のものだ。しかしそれは最終出勤日まで通常業務に励んだ人に対して行われるものであって、私のように休職してそのままフェードアウトした人に対しては、もちろん行われない。私も、私が適応障害になった原因である会社に送別会を開いてもらうなんてサラサラ思っておらず、特に気にもしていなかった。


しかし、最後に会ってお礼を言いたい人は、たくさんいた。


6年間勤めていたので、自部署だけでなく他部署でも関わっていた人がそれなりに多かった。休職のタイミングも急だったので、休職することもまともに言えなかった人が多かった。お世話になった人、仲良くしてくれた人が多かった分、その人たちに挨拶をせずにフェードアウトしてしまったことが心残りだった。

会社で出会った人は、これからも関係を続けようとお互いが思わない限りは、もう一生会えない人になってしまう。学生時代の友人が社会人になると疎遠になってしまうのと一緒だと思う。前職で出会った人で、この先もう一生会うことのない人たちは、従業員の半数以上だろう。

でも、私はこれから先も会いたいと思う人がたくさんいる。今までみたいに頻繁に会うことはなくなってしまうが、連絡を取り合ったり、定期的に会って近況を話しながら、一緒にご飯を食べたいと思う先輩や同僚が、私の頭の中にたくさんいた。それでも人から見ると無責任な形で退職を選んだ私には、自分からそのたくさんの人たちに声をかける資格はないと思っていた。


「仲の良い人だけ集めて、送別会しよう」と送られてきたメッセージを見て、しばらく固まったのち、泣いてしまった。朝からスタバで泣く女なんて怖いし、不審すぎる。落ち着くためにソイラテを飲んだものの、ソイラテを喉に流し込んだ分、目から水分が出ていく。私はもう諦めて、できるだけ声には出さないように、不審には思われないように、ひっそりと泣いた。


3月に入って開催された送別会は、10人ちょっとという、想像していたよりも大きな規模で開催された。善意で開催してくれた会なので、費用はすべて私以外の参加者で割られた。身銭を切らせてしまって申し訳ないという気持ちが未だにあるが、会いたいと思っていた人ばかりが集まってくれており、本当に楽しい時間を過ごさせてもらった。


そして強く思ったのは、この人たちと働けて良かったな、ということだった。


私が退職した理由は、適応障害になったからだ。
当初は2ヵ月ほど休職したら、復職するつもりだった。しかし、実際に休職して1ヵ月経った時、もう一度自分が復職して働くイメージがまったく湧かなかった。働きたいと、まったく思わなかった。適応障害の原因となった人たちと再び一緒に働く、ということを想像した時に、働ける気がまったくしなかったし、その人たちの顔を思い出すと吐き気さえもした。今改めて考えてみても、その考えは変わらないので、退職という決断にはやはり後悔はしていない。
しかし、どこかで「私が一生懸命働いてきたこの6年間は何だったんだろう」とも思った。しょうもない人たちのせいで、まだ働き続けるつもりだった私の未来を、潰されたとさえ思っていた。

でも私の送別会に、これだけの人が集まってくれた。
きっと、私が働いた6年間の財産は、これなのだと思った。
会社を辞めた後も、関係を続けられる人たちがいる。「同僚」じゃなくなる私に対して、これからも連絡を取り合おうと、また飲みに行こうと言ってくれる人がいる。もちろんその中には社交辞令も入っていると思うが、私の6年間は、決して無駄ではなかったし、何もなかったということはないと思えた。この人たちと出会えて、これからも付き合い続けられることが、私が6年間働いて得た財産なのだ。


送別会が楽しすぎた私は、その反動で翌日から結構へこんでしまっていた。数日後に引っ越しを予定していたのだが、絶賛おセンチモードになってしまった私は、その荷造りをしながら、どんどん物が減っていく部屋の中を見て泣いた。そしてそのまた数日後、引っ越し業者が荷物を運び出し、空っぽになった部屋を見て、雑巾がけをしながら再び泣いた。退職の決断は後悔していないけれど、私のおセンチ気分は1週間ほど続いた。このおセンチ気分からいつ抜け出せるのだろうと、少し不安にもなっていた。

しかし、そんなものは税金や年金の手続きをしている中で、なくなっていくお金を計算しているうちに全部飛んでいった。現実は待ってくれない。だから私もいつまでもおセンチに浸っている場合ではない。前に進むしかないのだ。


できれば適応障害にならず、休職もせず、健康な状態で自分が決めたタイミングで退職するのが一番良かったのだと思う。でも「私がここで働いた時間は無駄じゃなかった」と思えるだけで、私はここで働いて良かったと思えた。

これからも、私を送り出してくれた人たちとの関係は続いていく。
次に会った時も楽しい話ができるように、私はひたすら、夢に向かって進んでいくのみなのだ。

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// WRITER'S PROFILE //

AYAKA KAWABATA

川端彩香。関西出身。一番やりたくなかった営業職として約9年働く。元カレに振られたことから自分磨きに勤しみ、その一環でライターに興味を持つ。将来は文章を生業にして生きたい。好きな作家は森見登美彦と有川ひろ。凹んだ時は女芸人のエッセイ。2024年にデンマークへ逃亡予定。

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