さようなら、6年間を共にした私の城

2024.04.03

ついにこの時がやってきてしまった。
6年間、喜怒哀楽を共にしてきた私の城を去る時が。

6年前、転職を機に1人暮らしをすることになった。同じ関西圏ではあったが、実家からはとてもじゃないが通える距離ではなかったからだ。もともと、転職したら1人暮らしをしようと思っていた。なので泣く泣く実家を出たわけではなく、むしろワクワクした気持ちでいっぱいだった。

田舎者なので、都会への憧れはとてもあった。実家は徒歩圏内にコンビニもスーパーもなく、何も買えない。しいて言うなら、徒歩3分のところに自動販売機はある。最寄り駅も車なら8分、自転車15分、徒歩40分だ。もはや最寄りではない。

ゴキブリには出会いたくないから、階数は絶対に5階以上。オートロックは絶対。駅まで徒歩で7分程度、せめて10分以内。職場にも、地元の街へも乗り換えなしで行けるところ。北と西向きは絶対NG。

金はないくせに、こだわりはそれなりに多かった。
しかし、そんなにたくさんあった条件も満たす物件が見つかった。しかも新築!

当初は条件に入れていなかった宅配ボックスや浴室内乾燥もあって、ゴミも24時間いつ出してもOK。想像していた以上の好物件に、予算内で入居することになった。

大学時代も1人暮らしはしていたが、その時は奨学金も借りていたし、母のパート代から家賃を払ってもらっていた。でも、今回は自分が働いたお金で家賃も払うし、諸々の生活費も払う。生活するお金も、遊ぶお金も、当たり前だが自分で管理してやっていかなければならない。最初の頃は自分の好きなものだけを集められることが嬉しくて、大好きな北欧食器を爆買いしてしまっていた。当然、お金は貯まらない。当時は仲の良い友人たちが気軽な距離に会えるところにいなかったので、自分の欲しいものにお金をつぎ込んでしまっていたところがある。
浪費癖のある私にとっては収支を把握して、毎月少しでも貯金ができるようになるまで時間はかかったが、良くも悪くも「自己責任」な1人暮らしは、私にとって楽しいと思えるものだった。

そんな私の「好き」が詰まった場所を、退去することになった。きっかけは、勤めていた会社を退職し、実家に戻ることにしたからだ。

そのまま住むことも考えたが、無職の私が家賃を払い続けるのは正直しんどい。貯金を切り崩せばどうにかなったとは思うが、私は来年から留学に行く予定だ。金銭面を考えると、このまま定職に就かずに1人暮らしをし続けるのは現実的ではなかった。

管理会社に退去の申請をし、引っ越し業者に見積もりを取ってもらい、私の引っ越し準備が始まった。使わないものから段ボールに入れていくと同時に、もう不要なものは捨てて……いくつもりだった。

というのも、物を見るたびにこの家で過ごした思い出が蘇ってきて、なかなか捨てられないのだ。北欧食器も、こんなにいらんだろ、というのはわかっているのだが、結局1つも手放せなかった。たくさんあるマグカップも、いつどこで買ったのか鮮明に思い出せる。

「10箱くらいで収まると思いますよ」と見積もりをしてくれた引っ越し業者の人にも言われていたのだが、結局17箱くらいになってしまった。
大学時代に親に買ってもらって、引き続き使い続けていた電子レンジやトースターは、さすがに寿命なので捨てたが、厳選しきれなかった食器、細かい雑貨、本と雑誌など、決心がつけられなかったものは、一旦実家へ持ち帰ることにした。「そんなにいっぱい荷物置ける場所ないで!」と言っていた母には、心の中でひっそり謝った。そして、私はミニマリストにはなれないな、と心底思った。

物が多い自覚はあったので早めに、少しずつ荷物は詰めていっていたのだが、実際に部屋から物が消えていくと、とても寂しくなった。捨てたわけではないのに、「部屋から」なくなったというのが、私をとてつもなく寂しい気持ちにさせた。この部屋で過ごした6年間は、私にとって思い出が詰まりすぎていた。

仕事で楽しいことがあっても、つらいことがあっても、腹が立つことがあっても、それを帰宅して誰に話せるわけでもない。そりゃそうだ。だって1人暮らしだから。今日あった出来事や、ふと思ったことや疑問を聞いてくれたり、ぶつけたりする相手はいない。人はいないが、私にとってそれを全部まるっと受け入れてくれるのが、家だった。私の「好き」でいっぱいにした家だった。自分の好きなテキスタイルでオーダーした、1番お気に入りのカーテンは、疲れた時やつらい時にいつも眺めて癒されていた。お気に入りのマグカップで飲むものは、なんでも美味しかったし、心がホッとした。忙しくて料理をする時間が取れなかった時も、買ってきた総菜やコンビニ飯を北欧のプレートに乗せるだけで、明るくなれた。失恋した時は花を買ってみたりもした。その時も、カーテンやベッドカバーに合う色を選んだ。

空っぽだった部屋に物を入れて、自分の好きな空間に作り上げたのは紛れもなく私自身だが、この家に何度救われたかわからない。条件面が希望以上だったことも大いにあるとは思うが、自分で作り上げたこの空間が、私は大好きだった。正直、隣人がうるさくて引っ越そうかと思ったことは一度や二度ではない。それでも、やっぱり私はこの家を手放せなかった。ここに住みたいと思った。隣人の鬱陶しさにも勝る空間だった。この家は、6年分の私の喜怒哀楽が詰まっていて、それを唯一受け入れてくれた。私にとってはかけがえのない、宝物の場所だ。

実際に家から荷物が運び出されて、入居した時と同じ空っぽの空間と私だけになった瞬間、自然と涙が溢れてきた。「私は本当に今日でこの家とお別れで、もうここに帰ってくることもないんだよな」と思うと、どうしようもなく寂しくなった。最後だし、気が済むまで泣こうと決め込み、わんわんと泣いたのだが、いかんせん物がないから泣き声がよく響く。本当に私はたくさんの好きな物に囲まれていたのだなぁと思いながら、ひたすら泣いた。さすがに泣き声の響き具合が気になったので、少し抑え気味に泣いた。そして最後に「ありがとう」と言いつつ、泣きながら雑巾掛けをした。電気もつけず暗い中、ただただ号泣しながら家中を雑巾掛けしている女なんて、我ながら想像するだけで気味が悪い。でも、そうしていても寂しさは拭えなかった。

引き渡しは翌日だった。空っぽになった家を、後悔しないように目に焼き付けた。もう一生、私がこの家に足を踏み入れることはない。大好きだったこの家を、私は管理会社の人が来る瞬間まで、ひたすら「ありがとう」と言いながら撫でまわした。そしてまたシクシクと泣いた。しつこいぐらいに泣いている。泣きすぎやろ、と自分でも思うのだが、それくらい私はこの家に思入れがあったということなのだろうとも思った。

引き渡しは、あっさりと終わった。
さっきまで撫でまわして泣いていたのに、管理会社の人が家の中をチェックして、書類にサインをして、鍵を渡したら「じゃあ、我々が最後チェックして戸締りしますので、これで退室いただいて大丈夫です」と言われ、私は流れるように立ち去ることになった。あまりにも流れていたので、最後に悲しんだり、長年住んだ家との最後の別れを惜しむ間もなく去った。いや、散々泣いて惜しんだだろ、というツッコミは心に仕舞っていてほしい。私は絶賛おセンチな気分だったのだ。

6年間の喜怒哀楽、誰にも言えなかったこと、ニヤニヤしてしまうこと、どうしようもなくつらくて落ち込んでしまったこと、この家が6年間、ずっと受け止め続けてくれていた。一生住むことはないと思っていたけれど、私が思っていたよりも、その別れは早かった。そんな家を去ることは、やっぱりどう考えても寂しいし、退去して3週間が経った今も、思い出すと少しおセンチ気分が舞い戻ってくる。

でもこれは、私が次のステップに進むためのことだ。一度実家に戻って、心身共に充電する期間兼、将来の諸々について準備する期間を設けるために必要だったステップなのだ。次に進もうとしている段階で、いつまでも過去に縛られすぎるのは良くない。

心身共に元気になって、将来やりたいことの準備をして、やりたいことをどんどん実行していく中で、また私は1人で城を作りたいと思っている。そしてその時は、6年住んだあの城よりも、もっとレベルアップした城を作りたい。

次はどんな間取りが良いか。どのあたりに住もうか。1年以上先のことを、もう考え始めている。
お金、仕事、結婚、将来の悩みは尽きないが、きっと私の未来は明るいだろう。

この記事に いいね!する >>

// WRITER'S PROFILE //

AYAKA KAWABATA

川端彩香。関西出身。一番やりたくなかった営業職として約9年働く。元カレに振られたことから自分磨きに勤しみ、その一環でライターに興味を持つ。将来は文章を生業にして生きたい。好きな作家は森見登美彦と有川ひろ。凹んだ時は女芸人のエッセイ。2024年にデンマークへ逃亡予定。

上部へスクロール